カンブリア宮殿「ユーハイム」の回、ご覧になられましたか? 今から101年前、日本で初めてバウムクーヘンを販売したのがユーハイム。神戸・元町の商店街の一角にあるユーハイムの神戸元町本店。ここでは全国でもわずかな店でしか味わえないバウムクーヘンを売っています。しっとりとした味わいを楽しむことができる「切りたてバウムクーヘン」(1枚108円)。社長の河本英雄さんが率いるユーハイムは全国278店舗、年商280億円超。しかし、その強さを支えているものは、大手とは全く真逆の菓子作りにありました。
大規模なユーハイムさんの工場を訪ねると「工場に来る人はみんな人が多いことに驚く」と言います。確かに最新の生産ラインなどは一つもなく、いたるところで膨大な人数の菓子職人が忙しそうに動き回っています。生クリームを塗る工程は、他の大手の場合、機械化されているところですが、ユーハイムは手作業。焼き菓子に模様を入れていく作業も、他の大手では自動化されていたりするところもあるそうですが、ユーハイムではやはり手作業。製造の工業化に頼らない大手とは思えない職人たちの菓子作り。これこそがユーハイムが他に負けない強さを支えていたのです。
「非効率ですよね。でも効率を何と考えるか。数字か味か。数字に関していかに効率が良かろうが、味に対して非効率であれば、それは効率的ではないと思います」と話す河本社長。
千葉・船橋市のユーハイム船橋工場が映されていましたが、ここで職人たちが作っていたのは「モリヨシダ」の「モンブラン」。特にこだわっているのはモンブランクリーム。驚いたのは、大企業にも拘らず機械を使わず、手作業できめ細かい滑らかさが出るまで延々と混ぜ合わせていたこと。「機械でやるとつぶれすぎてしまう。ふんわりしたモンブランクリームを作るにはやはり手で」と言うのです。「モリヨシダ」のおいしいモンブランはユーハイムの腕利きの職人たちが作っていたのです。別の職人たちが作っていたのは「フィリップ・コンティチーニ」の「タルトタタン」。スライスしたリンゴを、これまた手作業で丁寧に重ねていました。「角にリンゴが入ってないと、型を抜いた時にきれいに台形にならない。噛んだ時の食感も違ってくる」と言いいます。さらに別の職人が型から取り出したのはかわいらしいムースケーキ。これも「スクランブルスクエア」に入るドイツの洋菓子店「グマイナー」の商品「ヴァルト」。ユーハイムは海外スイーツ店の製造・販売を請け負い、日本進出を支えている、とても貴重なメーカーだったのです。
「渋谷ヒカリエ」に店を構えるのは2018年に日本に初上陸したパリの超人気店「ミシャラク」。その斬新な菓子作りにセレブの顧客も少なくないそうですが、実はここも日本での製造をユーハイムが任されているのです。その理由をクリストフ・ミシャラクさんは「技術の完成度が素晴らしい。ユーハイムは本当に進んでいると思いました。ユーハイムと組めてうれしいです。なぜなら僕のケーキをパリと遜色なく完璧に再現してくれるから。それがなければパートナーに選ぶことはありませんでした」と・・・。
バウムクーヘンが生まれたと言われる町、ドイツ・コトブス。街中に立つ女性の像の手にはバウムクーヘンがありました。ところが、そのドイツでバウムクーヘンについて聞くと「あまり食べない」「年寄りのもの」という声が聞かれたのです。ドイツでは既に時代遅れの菓子になっていたのです。ではユーハイムはなぜ、バウムクーヘンを日本でブレークさせることができたのか。
社長の河本さんが拘るのは、保存料などをゼロにする「純正自然」というキャッチフレーズの商品づくり。ショートケーキに使うイチゴジャムも自社で作ることに挑戦していました。ケーキの材料を一つずつ、元となる原料までさかのぼって「純正自然」を進めているのです。
「全部本来のものが入っているのがいいと思うんです。それが、僕らがやっている『純正自然』。現在、ユーハイムの商品はその8割が『純正自然』で作られているとのこと。
そんなケーキ作りをユーハイムに根付かせた夫婦・・・それがユーハイムの創業者、カールさんとその妻エリーゼさん。ドイツの菓子職人だったカール・ユーハイムさんんは、1909年、当時ドイツの租借地となっていた中国・青島でユーハイムを創業。その後一生の伴侶となるエリーゼさんと出会いますが、お2人の歩みは苦難の連続でした。
1914年、第一次世界大戦が始まると青島が陥落。カールさんは日本軍の捕虜となってしまいます。終戦後は日本にとどまり横浜で小さな店を開業するも、今度は関東大震災が起き、またすべてを失ってしまいます。それでも諦めなかった2人は、1923年、神戸で店を開業。そこでヒットしたのが故郷のバウムクーヘンだったのです。苦労して店を軌道に乗せたお2人でしたが、店舗の急激な拡大には否定的でした。エリーゼさんを直接知る現会長の河本武さんは次のように・・・。
「エリーゼさんに店を出すと怒られる。『あなたは何をやっているんだ』と。『お菓子屋には「3S」というのがあって、それは「スモール・スロー・ステディー」。「小さく・ゆっくり・着実に」やっていくのが菓子屋。店を何店も出したというのは自慢にならない』と。
1945年、終戦の1日前、59歳でカールさんが死去。その後、エリーゼさんの経営を手伝ったのが、当時ユーハイムにバターを卸していた、現社長の祖父・河本春男さん。カールさん亡き後もエリーゼさんは、お菓子のおいしさを決める原材料にこだわり続けました。
「エリーゼさんは『乳化剤を混ぜるのは簡単だけど、うちは乳化剤などの食品添加物は使わない』と。素材のおいしさを組み合わせてお菓子を作る。『見えるところは丁寧に、見えないところはより丁寧に』と言っていたカールさん。
ユーハイム夫妻の口癖は「お菓子は平和の象徴」という言葉。戦乱に翻弄された2人の思いが込められているのです。実は、カールさんが日本で最初にバウムクーヘンを販売したのは広島市。破壊される前の原爆ドーム、物産陳列館。101年前のことだったのです。
その因縁に、カールさんの菓子作りへの決意があったのではと河本さんは考えていました。
「ドイツへ帰る選択肢も別の所に行く選択肢もあった。でもユーハイムさんが日本に残ると決心したのは、おそらくこの国の平和のためにはお菓子が必要だと思ったからじゃないかと思うんです。ずっと平和を思いながらお菓子を焼いて、ここからバウムクーヘンが日本全国へ広まっていった。本当に感無量です」と。
全国でもわずかな店でしか味わえないという「切りたてバウムクーヘン」。実は、つい先日、あるショッピングモールに期間限定で出店していたので、買うチャンスがあっのですが、2日しか日持ちしなくて、買うからには家族そろって食べたいという思いもあって、揃うのが1週間後だった私は断念したのでした。・・・いやぁ、やっぱり買って、1人でも食べておくべきだったか・・・。私が生まれ広島で、カールさんが日本で最初にバウムクーヘンを販売したことも、身体に良い「純正自然」を目指している事も、大いに応援したい気持ちにならざるを得ないのです。その後、お菓子を買おうとしてユーハイムを見つけてしまったら、やはり、ちょっと手を出してしまうようになったのでした・・・。
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ご無沙汰しております。気付けば2ヶ月以上も書かないまま今日に至り
やはり、たまには書かないと・・・と思って、無理をして描いております。
正直、コロナのストレスと、在宅中心となって、不自由やら、色々な仕事が
重なって来てしまってパンパンの状態です。
とは言うものの、こんな時だからこそ力をくれる番組をご紹介したいと思います。
逆境に耐えて乗り越えていく事がテーマの番組は、既に御紹介している【ガイアの夜明け】
や【逆転人生】などがありますが、最近はまっている番組で他にも気金が貰える【激レア
さんを連れてきた】や【勝手屋本舗~どん底からの再建ビフォーアフター】などもあります。
今回は、最後の【勝手屋本舗~どん底からの再建ビフォーアフター】についてお話しできればと
思います。
この夏、熊本を襲った令和2年7月の豪雨。老舗うなぎ店・上村うなぎ屋は外見の店舗こそ
何とか残ったものの、店内は全て流されてしまって再起不能な状態。上村うなぎ屋に人は
おらず、ご自宅を尋ねて状況を伺うと、店の中のものが流されただけでなく、大切な家族の
思い出までも無くなってしまったとのこと。震災から3ヵ月、ほぼ毎日のように従業員たちが
無償で泥出しなどの作業を行っているが、先が見えない・・・。ご主人は1度再建を諦めた
ものの、店のファンからの手紙でやる気になったとは言うものの、あまりの辛さに、自宅から
すぐの店舗を見に行く事すらできなかった。震災後、どこも人出不足で再建は進まない・・・。
番組が選んだ最終提案は「オンラインサロンメンバーで人海戦術支援」。何の見返りもなく、
無償での支援が始まると、店舗に行く事が出来なかったご主人が店舗に足を運んでいく・・・
人の心の温かさを実感できる瞬間でした・・・
同日、放送された中には、盗難被害にあった草津熱帯圏もありました。800万円入っていた
金庫が盗まれたとのこと。草津熱帯圏は50年愛され、最大の売りは熱帯大ドームだ。老朽化で
スタッフで修繕しエサ代も浮かせるよう努力しています。草津熱帯圏の目標は来園者を増やし
800万円を取り戻すこと。
番組では、ナイトクルーズ動物園やクラウドファンディングを活用したネーミング公募などの
アイデアが出され、ネーミング公募が動き出していきます・・・
コロナ禍で多くの人が苦しんでいる時に、困っている人から盗んだり、つくられた助成金を
不正受給したり、ゴートゥーイートの裏技で飲食店を困らせたり、飲食店の批判をしたり…
嫌な話が多い中、救われる気のした番組でした。
大変な方が多くいるコロナ下ですが、なんとか無事乗り越えていきたいですね。
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ご無沙汰しております。
新型コロナ下で、在宅勤務が主流となりつつある昨今。リモート勤務?プロ野球の観戦もリモート観戦・・・。Socialdistanceを意識しながらの生活なんて、通常のオフィス内では困難で、対応できずにオフィスの在り方そのものも考え直さなければならない?・・・
ニューノーマルという言葉も、随分と聞かれるようになりましたが、言うは易く行うは難し・・・
在宅での仕事は、専用スペースもなくストレスもたまります。確かに通勤時間はなくなって、その分時間が有効に使えるはずですが、不自由な部分も多く、それが故に短時間で終わっていたことが、短時間で終えられない事も発生しています。
以前、鉄道にまつわる、心に“沁(し)みる”エピソードを取り上げ、紹介していく「沁(し)みる夜汽車」としいう番組をご紹介させて頂きましたが、こんな時、改めて見ると、ほっこり肩の力も抜けたりします。
https://www.nhk.jp/p/ts/GQ8PWYMK6W/list/
先日、NHKのザ・プロフゥッショナルで三ツ星シェフの米田さんが、こんな事を話されていました。
『諦めそうになった時こそ、もう一歩前へ』
「沁(し)みる夜汽車」でも、こんな事を言っていた気が・・・
『やりきれないをやり通す』
やり抜く事が大切だと・・・
こんなコロナによる強制的な大変革の中、戸惑う事も多々ありますが、やるしかない・・・
でも、これだけは意識したいんですよね。こんな厳しい状況だからこそ、黙って、支えて
くれている家族、特に奥様への感謝の気持ちを態度で示さなくてはと・・・。
思えば、在宅になる事で奥様の負担は相当大きなものになっているはず。家事もそうだけれど
ガス抜きの時間が無くなっているのではないかと・・・
仕事を思えば、余裕がなくなりがちかもしれませんが、黙って色々と気づかいしたりお世話を
してくれている事に感謝し、少しでも、その一部でも担ってあげる気持ちが大切な気がします。
世界の感染率が加速的に拡大し、一度おさまっている地域でも再拡大するなどの不安もある中
日本は、解除解除で、先週末の人の動きは信じられないほどの混雑状態でした。
大丈夫なのでしょうか?
早くトンネルを抜け出したいですよね。
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今年の1月下旬から4回にわたってNHKで放送された【心の傷を癒すということ】というドラマを見られた方は居られますか?阪神・淡路大震災の時、被災者の【心のケア】のパイオニアとして奮闘し続けた精神科医の、実話を基にして作られた物語です。
本作のプロデューサー京田光広さんは神戸市出身で、阪神・淡路大震災の時に実家が半壊されたそうです。東京で勤務していた京田さんは使命感に駆られて神戸へと戻り現地取材班の一員として寝る間も惜しんで取材に従事しますが、はたして取材活動は被災者の助けとなっているのか、家族が被災し故郷が悲しみに暮れる中で取材を続ける意味に疑問を抱き続けたそうです。
後に大阪へ異動となってからも被災地取材や震災番組から目を背けてきましたが、安克昌著の『心の傷を癒すということ』と出会い、自ら被災しつつも被災者に寄り添い続けた安氏の姿に触れたことを契機に、「自分も故郷を覆った悲しみに、もう一度しっかりと向き合ってみよう」と決意。
当初は安氏のドキュメンタリー番組の制作を検討していたそうですが、その大きな人間性や生い立ちを知ることで「ドキュメンタリーでは描ききれない」と感じ、ドラマとして表現することにしたそうです。「心のケアのパイオニアだった安さんのことをみなさんに知ってもらいたい」として企画を温め続け、約10年の年月を経て制作へと至った作品。
脚本は第54回ギャラクシー賞奨励賞を受賞し本作が初の連続ドラマとなる桑原亮子さんが担当。中学2年生の時に兵庫県西宮市で被災した桑原さんは、地震体験装置に入って当時の記憶を呼び起こすことで同じく25年間「小部屋の中に閉じこめていた」と語る震災体験と向き合い、「想像で書いてしまうと、失礼な気がした」として安氏の遺族へ丁寧に取材を重ねて、生い立ちや苦悩、家族との絆から、夫人との出会いやデートのエピソードまで細かく聞き出し、本作を執筆しています。
主演の柄本佑さんもまた、遺族に会って話を聞いた上で、「寄り添う」ことをテーマに本作の撮影に臨みました。また、撮影開始の2か月以上前から「まったく初めての体験」と語るジャズピアノの練習を続け、劇中では華麗な演奏シーンをたびたび披露。本物の役者さんですよね。そんな物語のあらすじは、こんな感じです。
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ジャズピアノはプロ級の腕前、レコードと読書をこよなく愛する“はにかみ屋”の若手精神科医・安和隆(柄本)。自分の居場所を探し続ける青年時代を送ってきましたが、明るい妻・終子(尾野)と出会い、同じ在日としての悩みを共にできたことでようやく心穏やかな日々を送っていきます。第一子が誕生した直後、阪神・淡路大震災が起きると、精神科医としてできることは何か…模索の日々が始まります。
和隆は被災者に寄り添い話を聞き続ける中で、精神科医にできることは、被災者を治療することではなく、治癒力を回復させる手助けをすることだと気づいていきます。その後、精神科医として見た被災地の様子を一冊の本にまとめ、学芸賞を受賞。明るい兆しが見えはじめた、39歳のある日、がんが発覚します・・・。
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私は、「心の傷を癒すということ (角川ソフィア文庫)」を読んだことがないもので、本屋さんで探しましたが見つける事が出来ず、Amazonで検索すると、とても高額で取引されていて断念・・・。いつか、読んでみたいと思いますが・・・
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ご無沙汰しておりました。・・・と気付けば師走。・・・ということで色々と1年を振り返るには、年末恒例の番付シリーズが手っ取り早く・・・
日経トレンディ&日経クロストレンド発表
2019年ヒット商品ベスト10
1位 ワークマン
2位 タピオカ(食品)
3位 PayPay(スマホ決済)
4位 ラグビーW杯2019
5位 令和&さよなら平成
6位 ボヘミアン・ラプソディ(映画)
7位 Netflix(動画ストリーミング)
8位 米津玄師
9位 ルックプラスバスタブクレンジング(洗剤)
10位 ハンディーファン(日用品)
まぁ、いずれも納得行きますが、5位は商品なのかと疑問符も・・・。
そして次は、ワールドビジネスサテライトでも紹介される・・・
日経MJ
ヒット商品番付2019
東
横綱 ラグビーワールドカップ
大関 令和
関脇 天気の子
小結 ウーバーイーツ
前頭1 ルックプラスバスタブクレンジング
前頭2 渋谷スクランブルスクエア
前頭3 ハンディファン
前頭4 渋野日向子
前頭5 アナと雪の女王2
前頭6 お皿いらず冷食
西
横綱 キャッシュレス
大関 タピオカ
関脇 ドラゴンクエストウォーク
小結 こだわり酒場のレモンサワー
前頭1 任天堂「ニンテンドースイッチライト」
前頭2 バスチー
前頭3 鬼滅の刃
前頭4 八村塁
前頭5 すみっコぐらし
前頭6 カニカマ
私が姉妹サイトでお薦めしていた「鬼滅の刃」が入っていましたねぇ・・・一方・・・
三井コンサルティング発表
2019年ヒット商品番付
東
横綱 平成から令和へ
大関 ノーベル化学賞 吉野彰氏
関脇 サブスクリプションサービス
小結 TOKYO2020へのカウントダウン
前頭1 SDGs
前頭2 「こども六法」
前頭3 渋谷再開発
前頭4 映画「天気の子」
前頭5 リングフィットアドベンチャー
前頭6 瀬戸内国際芸術祭
西
横綱 ラグビーワールドカップ
大関 渋野日向子選手・八村塁選手
関脇 消費税ポイント還元
小結 タピオカドリンク
前頭1 ドレスコードフリー
前頭2 プログラミング教育
前頭3 和製ウィスキー
前頭4 映画「ボヘミアン・ラプソディ」
前頭5 ハンディ―扇風機
前頭6 ムーミンバレーパーク
日経と三井を見ていると東西が逆な所もあって、東と西の棲み分けがよく分かりませんが、なるほどと言うものもあれば、何これ?みたいなものもありまして・・・。今更、何じゃこれと調べてみるのも、勉強にはなりますよね・・・。知らないまんま、年を越すのも・・・。で! いつもの・・・
今年の漢字は間もなく・・・12月12日発表となります。
昨年2018年は「災」、2017年「北」、2016年「金」、2015年「安」
毎年何かと一応考えてしまいますが、当たった例がありません…。
それでも一応と考えたのがラグビーから得られた「ワンチーム」「ノーサイド」、そして「平成」から「令和」へと流れて共通するイメージ・・・。それは1つになるという意味の「和」でした。なので、私はこの「和」で予想したいと思います。果たして今年もハズレるのか・・・
先週はNHKが珍しく"体感 首都直下地震ウイーク"として帯番組を企画し、それに合わせるかのように関東では地震が頻発。何となくNHKのにんまり喜ぶ映像が浮かんできたり・・・さながら、ラグビーで喜んだ日テレのごとく・・・。無事、来年を迎えていきたいですよねぇ・・・
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先日の【セブンルール】『ITで農家救う!次世代担う野菜直販サイト・食べチョクの若き社長』の回、ご覧になられた方は居られますか?この【セブンルール】という番組は、7つのルールを手掛かりに、輝く女性たちの素顔を映し出す新感覚ドキュメント番組で、スタジオではYOU、オードリー若林、俳優・青木崇高、芥川賞作家・本谷有希子の4人が自然体でコメントを発していくので、なかなか面白く毎回楽しく見させて頂いております。
今回の主役は「世界を変える30歳未満の30人」に選ばれた女性、秋元里奈さん。神奈川県相模原市の農家に生まれ育った彼女は、大学卒業後、大手IT企業のディー・エヌ・エーに入社し、農業とかけ離れた生活を送っていました。ある時実家に帰省すると、廃業して荒れ果てた畑を目の当たりにしたのです。
「自分が好きだった畑がもうないんだと思った時、圧倒的な悲しさを感じた」
そう話す秋元さんは“農家が稼げる世の中にしたい”と思い始め、入社4年目でディー・エヌ・エーを退職。前職で培ったITの力を使って、オーガニック野菜をはじめ、生産者が品質にこだわった食材を消費者に直接届けることが出来る直売サイト「食べチョク」を運営する会社を立ち上げたのです。「食べチョク」は、生産者が自ら価格を決めて出品し、利用者は450を超える農家から選択して商品を購入することが出来ます。
渋谷区の住宅街に建つ一軒家が、秋元さんの自宅兼オフィス。3年前にたった一人で始めた会社は、現在社員10人にまで増えました。平日昼夜を問わず仕事に打ち込み、社員がお休みの土日は、農家を訪ねて栽培方法などに耳を傾けながら心をしっかりと掴んでいきます。こうした取り組みが評価され、「Forbes JAPAN」による「世界を変える30歳未満の30人」の一人にも選出されました。
「農家は儲からない」という周囲の言葉を打ち消すように、走り続ける秋元さんは「20代を捨ててでもやりたい」と、己の全てを農業に捧げています。「5年以内に上場できないと私たちがいる意味がない」と番組の中で話されていた姿勢には感服しました。ご自身が書かれている”クリエイターと読者をつなぐ”【note】というサイトには、こんな事も書かれていました。
「5年以内に…」というのは、『あくまで弊社の存在意義だけの話です。事業にはそれぞれ経営者の思いがあり、その全ては肯定されるべきものです。私の場合、「廃業を決める農家を1人でも減らしたい」という思いで起業していて、そのためにはスピードにこだわりを持っています。』また、こんな事も書かれていました。
『上場はあくまで通過点の一つです。私たちは「事業をしている一分一秒の間に廃業を決める生産者がいる」という危機意識をもち、スピード感ある事業展開を目指しています。あくまでその一つの指標が5年以内の上場です。全てのステークホルダーに利益を還元し、持続的な事業を構築していきたいと思っています。』同サイトには【食べチョク】の行動指針も書かれていました。
ちにみにサイトは、こちらです。
https://note.mu/akirina/n/n2e3c768acf1e
とても魅力的な女性でした。
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先日、NHKドキュメンタリーのBS1スペシャル「忘れられた“在宅被災者”~東日本大震災からの警告~」を見ました。東日本大震災から8年以上たった今も壊れたままの家で暮らす「在宅被災者」。宮城県石巻市だけでも2,400世帯を超え、西日本豪雨など全国の災害でも数多く生まれていることが明らかになってきています。
在宅被災者とは、自宅に何とか住める被災者を指していますが、番組を見て住めるという基準は建物の倒壊具合と言った表面的な部分が大きく、実際に電気、ガスや水道等が使えず、とても人が住めないような家もあり、酷い物でした。自宅は全半壊していても、何らかの理由で自宅生活を続ける人たちもいました。「避難所は満杯で入る余地がなかった」「要介護者や乳幼児がいて避難所での生活は困難」といった状況はあちこちで生じる可能性があります。
宮城県石巻市のボランティア団体「チーム王冠」の代表・伊藤さんは、石巻市を中心に被災者支援を続けており、被災者の生活再建の相談に乗ったり、家屋の補修を手伝ったりしています。伊藤さんは、家を外から見ても分からない。住んでいる人は、恥ずかしがって、なかなか中に入れてくれず、状況の把握が容易ではないそうです。震災から7年が経つのに、いまだに家の中は震災当時の状況のままの人もいるそうです。
また、災害危険区域に指定されたため、建て替えや増改築ができなくなった地区もあり、長期化すると娘や息子夫婦の家に避難していても迷惑をかけてしまうからと「全壊」判定を受けた家に帰る人も居るようです。チーム王冠は2014年に石巻市の約1,100世帯を訪問調査しています。その結果、有効回答538世帯のうち半分近い243世帯は、修復未了の住宅に住んでいることが判明。
代表の伊藤さんは「石巻市内の全数調査は今もできていません」と言い、全体像は不明のままなんだとか。在宅被災者は家屋の外見で判断できないこともあり、いったん実態把握の網の目から抜け落ちると、支援の手を差し伸べることは難しくなるようです。また、在宅被災者には、他の被災者との「支援の差」もあります。例えば、仮設住宅や「みなし仮設」の借り上げ住宅などに入ると、冷蔵庫やテレビなど家電の6点セットが無償で支給されるほか、家賃も発生しませんが、在宅被災者への個別施策は事実上、存在しません。
同じ被災者でも「在宅」の負担は相対的に重くなるのです。同じ被災者なのに、避難所にいるかいないかで支援に差が出る制度…番組の中では、まともな生活ができていない事を訴えて仮設住宅への入居を希望される方が取り上げられていましたが、入居資格がないと撥ねられた時は、制度の問題もそうですが、お役所…お国の取り決めは、何とも柔軟性に欠けるものだと、またしても思わされたのでした。
某首相は、某アメリカから大量のトウモロコシを購入する約束をして成果と喜び、大量の武装にもお金を投じていますが、もっと違う使い方は出来ないものなのでしょうか。首都直下地震が起きた場合、最大で死者9,000人超、全壊・焼失約30万棟、避難者数339万人の被害が出るという今。まだまだこれからも、大量の在宅被災者が出来てしまう事は容易に予想されます。年金の将来も不安ですが、こうした不安も早めに解消して欲しいものですね・・・
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7月25日放送のカンブリア宮殿『超ロングセラー・カルピス...発売100年で過去最高売り上げの秘密!』の回、ご覧になられましたか? 今回は知らない人はいないだろうという100年親しまれてきたカルピスが主役。子供の頃、コーラはダメだけどカルピスなら良いよと、大人公認のお薦め飲料。お中元の詰め合わせで送られてくると大喜びしていたのを思い出します。
そんなカルピス100年の歴史は“山あり谷あり”でした。創業者・三島海雲が1908年に訪れた内モンゴルで飲んだ「酸乳」(乳酸菌を発酵させたもの)がカルピス開発のきっかけだそうです。毎日飲んでいると胃腸の調子が良くなったという三島海雲は、日本に戻り、試行錯誤を重ね、1919年にカルピスを完成させます。体に良く、経済的なカルピスはたちまち日本中に浸透、お中元の定番となるのです。
しかし、1980年代に入ると自動販売機の普及で、缶入り飲料が当たり前となっていくことで、薄めて飲むというスタイルのカルピスは低迷します。そこで起死回生、「カルピスウォーター」を完成させ大ヒットさせるのですが、これだけに満足せず、更に原点回帰、“健康飲料”としての価値を訴求、中高年層を開拓し、カルピスブランドを再生させていくのです。
原点回帰する中で、子供だけでなく、家族3世代で楽しめる飲み物を想像してきたカルピス。そんな大人向けのカルピスまで人気という話ですが、その一つ「濃いめのカルピス」は、子供の頃、カルピスの原液を水で薄めて飲んでいた世代をターゲットにしたもので「もっと濃い味を飲みたかった」という思いを商品にしたのなんだとか。
もう一つが「カラダカルピス」。こちらは言うまでもなく健康が気になる中高年に向けた「体脂肪を減らす」という機能性表示食品です。…ということで、さっそく体脂肪を減らしてくれるという「カラダカルピス」を子供ではなく、自分用として買って来て、何故か子供に見せびらかしてしまう単純な私…。これらの大人向けカルピスのヒットも貢献して、今年、発売100年を迎える超ロングセラー商品「カルピス」の販売量は10年で1,5倍に増え、売り上げは過去最高を更新しているとのこと。
カルピスを再ブレークに導いたのが、現社長の岸上さん。大学卒業後カルピスに入社、カルピス一筋でしたが、会社は2007年に味の素の子会社となってしまいます。更に2012年にはアサヒグループに買収されてしまうのですが、岸上さんは「成長するチャンス」とポジティブな思考を貫き、なんと2015年、買収された企業の人間がアサヒ飲料のトップに立つという異例の出世で業界を驚かせました。通常とても考えられない奇跡の様な話です。
いまや発売135年の三ツ矢サイダーも大幅売り上げアップ、115年のウィルキンソンも過去最高売り上げを達成しているようです。普通なら買収される事でモチベーションが下がり、そのまま影が薄くなっていくところですが、岸上さん凄いですよね。こんな痛快な話を聞いていると、あなたも、つい…カルピスを買ってしまいそうになりませんか??
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先日、【菜の花の沖縄日記】という沖縄テレビのドキュメンタリー番組を見ました。同番組は、日本民間放送連盟賞 テレビ報道番組部門の優秀賞 に選ばれると共に、第38回『地方の時代』映像祭2018グランプリも受賞している、素晴らしいドキュメンタリー番組です。
石川県・能登の中学を出た15歳の少女「坂本菜の花」さんは、いじめにあっていたこともあって、進路は好きな所へと両親に任せられ、親元を離れて、沖縄の「珊瑚舎スコーレ」というフリースクールで3年間を過ごすことになりました。「心の距離を縮めたい」という女の子が、料理店で働きながら、珊瑚舎スコーレというフリースクールに通い、沖縄の人々との交流を通して、この島ではずっと「戦争」が続いていることを肌で感じ取っていきます。
菜の花さんは、こうした貴重な体験を故郷の新聞のコラム【菜の花の沖縄日記】に書き続けました。この作品は、基地政策によって人々の暮らしが脅かされる沖縄の現実…、その中にあって希望を抱き、生きる若者を追った、忖度のないドキュメンタリー番組です。
坂本菜の花さんと番組ディレクターとの出会いのきっかけは、3年前、彼女が通うフリースクールに併設されたお年寄りが通う夜間中学を取材していた時の事です。その時の学校の掲示板には、菜の花さんが書いたコラム「菜の花の沖縄日記」(北陸中日新聞掲載)第1号がありました。タイトルは「おじい、なぜ明るいの?」。そこには、菜の花さんが中学3年生にして、オスプレイヘリパッド建設反対運動が続く東村高江集落をこの目で見たいと思い訪れたこと、そして、出会った人々と交流を通して感じたことが素直な言葉でつづられていました。
それから3年間、彼女は沢山の沖縄の人たちと出会い、さまざまな場所に自ら足を運び、感じたことを書き続けていきます。高江、辺野古、そして、米軍属による女性暴行殺害事件に至るまで…。事件で犠牲になった20歳の女性と歳が4つしか変わらない坂本さんが紡ぐからこそ、その言葉は重く、読む人の心を揺さぶるものとなっていきました。
また、彼女が通う学校に併設された夜間中学に通うのは、73年前の戦争で子どもの頃学ぶ機会を奪われたお年寄りたち。そうした人々との交流を通して彼女は、沖縄では「戦争」がずっと続いていることを肌で感じ取っていきます。彼女のまっすぐな瞳を前に、基地問題について沈黙しがちな多くの沖縄の大人たちが本音で語っていきます。彼女を追って取材に行った先々で、事件事故のニュースだけでは伝えられない、人々の心の痛み、生活が政治によって壊されていく現実を捉えられたように思えたと番組スタッフは話しておられました。
沖縄の言葉・ウチナーグチには「悲しい」という言葉はないと言います。悲しいに近い言葉は、「ちむぐりさ」と言い「人の痛みを自分のものとして胸を痛め、一緒に悲しむ…」という意味だそうです。
先日、沖縄の慰霊の日を迎え、読まれた詩。若い人だからこそ伝えられる素直な気持ち。基地反対の投票も、投票率の事を取りあげて民意を語る人も居ますが、同じ沖縄の中で移転する基地について、思いやりある人たちが、自分の立場だけを優先させて、「移転させろ!」「ここに作るな!」って我儘な事は言いにくいですよね。もしも、投票が「沖縄に作るな!」というものであったなら、結果は明らかだった気がします・・・。
今回の【菜の花の沖縄日記】という番組。見られなかった方は、是非、再放送の機会に見て頂ければと思います。他人事としてしか感じにくい現実を、しっかり知る事が出来るのではないでしょうか…。そうそう、菜の花の沖縄日記は、書籍にもなったようですので、本を買って読むのもお薦めです!!
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4月18日放送のカンブリア宮殿『京都の老舗 茶筒の生き残り術』の回、ご覧になられましたか? 創業140年、京都の老舗が作る「手づくり」で、しかも創業当時とほとんど変わらない製法で作られているという"茶筒"が注目を浴びているんだとか。手間のかかった、その茶筒はデパートで実演販売すると1個1万円以上もする高級品にもかかわらず、1日50個以上売れてしまう…そんな茶筒を世の中に送り出しているのが今回の主役『開化堂』さん。蓋をのせるだけで、ゆっくりとピタッと閉じていく様は、それだけで芸術的でした。
開化堂の創業は1875年。明治初期にイギリスから輸入され始めたブリキを使って、丸い茶筒を作り出したんだとか。高度成長期に入ると、機械化による大量生産・大量消費が進み、いつしか時代の波に取り残されてしまいます。それでも手作りにこだわり続け、先代のお父さんは「こんな仕事あかんようになる。サラリーマンになれ」と言ったんだそうです。
しかし、6代目の現社長は、ある外国人が茶筒を購入していく様子を見て教えられたのです。「茶筒だからと言って、中にお茶を入れなくても良い」という柔軟な発想を。一時は廃業を覚悟した茶筒の老舗が心機一転、海外での可能性に気づき、海外に飛び出し大絶賛されて復活。アイデアが広がったことで、海外の売上は全体の30%を占めるんだとか。
今や京都で人気のカフェを経営、大手電機メーカーと組んで茶筒のスピーカーを作るまでになりました。この茶筒のスピーカーに興奮しているアシスタントの小池さんの反応もなかなかのものでした。日本で初めて金属製の茶筒を作ったといわれる開化堂さん。その茶筒はすべて職人による手作りで、シンプルに見えても、工程は130以上もあり、その見た目の美しさから、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館に永久収蔵されるまでになっていました。
また、番組の後半で紹介されていたGO ON(ゴーオン)というユニット。(ゴーンではありませんよ。)このユニット、伝統工芸の先行きに不安を感じる京都・伝統工芸の若き跡継ぎたち、西陣織12代目や朝日焼16代目など6人が生き残りの為に組んだもの。お互いに協力して、伝統工芸に新たな命を吹き込み、世界のマーケットに向けた新しい商品づくりに動き出していました。頼もしいユニットです。GO ONのサイトには、こんな事が書かれていました。
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伝統工芸から、多分野の結節点を拡げていく
京都を拠点に、伝統工芸を受け継ぐ6名の活動、「GO ON」。伝統工芸を軸とし、アート、デザイン、サイエンス、テクノロジーなど、幅広いジャンルとの接点をつくり、橋渡しとなるプロジェクトも展開しながら、伝統工芸のさらなる可能性を探っていきます。
未来をつくる活動を通して、これからの時代の豊かさを考え続けます。
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いつもの社長の金言…今回は2つ。
「今と同じ事を100年後も続ける」
そして、「戻る場所があるから ジャンプできる」
長年営んできた老舗としての"こだわり"、確かな土台がある。だからこそ、チャレンジすることを恐れず、駄目だったら戻れば良い。戻る場所があるからジャンプできる。伝統工芸の底力を感じさせてくれるお言葉でした。茶筒…欲しくなっちゃいましたよ。
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