昭和偉人伝、『浅野総一郎』の回、ご覧になられましたか?
富山の医者の家に生まれた浅野総一郎。他家へ養子に出されて苦労する中、事業意欲に目覚
めて十代にして起業していきます。失敗をくり返しても、後見人の山崎善次郎から「九転
十起」の教えを受けていきます。しかし、度重なる事業の失敗で借金が300両に達すると、
とうとう故郷の富山を離れて逃げるように東京へ。
一杯一銭の屋台の「水売り」で再起すると、薪炭、石炭を売りながら、資金と人脈を増やし
ていきます。横浜市から廃棄物のコークスを仕入れて巨利を得た頃、実業家・渋沢栄一と
出会い、国すらサジを投げたセメント製造に本格参入。座右の銘「稼ぐに追い付く貧乏なし」
とあるように、次々に事業を興す怒涛の日々。
その目には、近代国家・日本の進むべき姿が映っていたと言います。既得権益勢力や慎重さを
求める周囲とのあつれきで、撤退を強いられても、その度に「九転十起」を信条に前へ前へ
と進んでいく逞しさで、近代日本の礎を築いた、隠れた巨人といえる人物。
興した事業はセメント、石炭、石油、発電、海運、造船、鉄道、ホテル経営など、その数は
100に迫り、横浜の京浜工業地帯、道路のアスファルト舗装や公衆トイレの設置など、浅野が
明治から昭和初期にかけて日本に初めて導入し、今も私たちが恩恵を受けているものが数
多くあるそうです。
何度失敗しても立ち上がった九転十起の「不屈の実業家」。なんと、奥様も素晴らしい人で、
慈善事業として、名前を伏せた寄付で、千人以上の人を援助したと言われています。興味
深いのは何度も言われていた【九転十起】…この言葉、他でも聞き覚えがありますよね。
そうです。あのNHK連続テレビ小説「あさが来た」の主役あさの「座右の銘」ともなる言葉、
「九つ転び十起き(ここのつころび・とおおき)」です。この言葉は、あさのモデル・広岡
浅子のペンネームでもあったのです。
女性実業家・広岡浅子は、17歳で嫁いだ大阪の両替商・加島屋で商才を磨きます。維新後、
家業が傾くと炭鉱を買収して経営に乗り出し、家業を立て直します。着物姿が普通だった
時代に洋装を取り入れ、銀行や生命保険会社大同生命を設立、更には日本女子大学の設立
にまで貢献し、女傑と呼ばれた人物。
そこで、あの【九転十起】…どっちが先か気になって調べてみると…
【九転十起の女】が広岡浅子…生誕1849年10月18日~死没1919年1月14日
【九転十起の男】が浅野総一郎…生誕1848年3月10日~死没1930年11月9日
殆どかぶっていたんですよね。2人が共通する人物を介して共有するようになったのか…
謎は分からぬまま…ですが、いずれの【九転十起】の人生も凄すぎて凄すぎて…
こんな力や勢い・・・現代の政治家にあったらと思ってしまうのでありました・・・